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    ★Vol.615.注目!玄天経典-大師から教えられた四神の意味と方角!-

    大師から、四神の意味と方向についての詳しい通信があった。四神とは、東西南北、正しい方角、そしてそれに纏わる意味が、大師の究極な馬鹿羅によって、時が来るまで封印されてきた。それは、破壊と再生の時代が終息し、平成な世が定まった時、四神の正しい方角を知る必要があるという。まず、四神の方角が大変重要になってくる。この方向は、太陽が登る方向である東、沈む方向は西、人間の世界を家とすると、人が集まるリビングは、日光が当たる南向き、対する入り口、玄関は、西向きが多い、すると自ずと東は朱雀、西は玄武を示し、玄武に関しては玄関であり、馬鹿羅では同じ意味になる。青龍が北で北極星であるならば、南は、南十字星がある白虎になる。ここで、青龍は二人いて、光の民と通信する黄龍は金龍であり、光の民と通信して人に伝える役割の青龍は銀龍である。登り龍を金龍、降り龍を銀龍という。この金龍と銀龍の二人は青龍であり二人で一対である。白虎の生息地は、南方にあり、白い身体はアルビノでなく種であるという。アルビノは目が赤、若しくはそれに近い色の目の色をしているが、白虎の目の色は青色である。この意味は、青龍といつも向かい合わせにいて、青龍を見ているうちに目が青くなったという。そのため、白虎は青龍の話ししか聞かない。白虎の身体の色の意味は白龍、神のもと黒龍であり、白龍と黒龍が対になって人々を導くという意味から、白虎はそれら二体の龍神で一つの意味を成すという。青龍と白虎は、それぞれが北と南で、人の最後の心、慈悲を表すという。朱雀は、太陽が登ることを現し、玄武は太陽が沈むことを表す。これは、いわば、朝と夜を示す。なぜ朱雀も玄武も、二人ずついるかというと、夏は東南から太陽が登り、冬は西南から登る、沈むのは、この真逆を示す。これで、朱雀は、東、西、二人いて、玄武も二人いるという意味である。これにより、朱雀、玄武は、幾千満と謳われるが、その意味は、朱雀を意味する鶴は千年、玄武を意味する亀は満年といわれる。これは、時空を意味する。鳥は空を飛び時空の扉を守り、亀は門番であり時間の扉を守る、これらすべてを馬鹿羅で解くと「時が息詰まった時代、四神の力を用いて、神からのお告げを受け、光の民のもとに人々を導き、時空の扉を開けることで明るい未来を迎えることができる」となる。これは、四神である人間の性格や性質、得意分野がそれぞれ違うことを意味する。すなわち、四神の力、すべてが一つとなって進むべきであることを示す。大師は「今がその時代であるという。争いの時代に、この物事を解放することは不可能であり、未来に平和な時代が来た時、この隠された法力が解放される。そして人が集う店先には傘を被ったタヌキがいて、寺の門番には傘を被った大師が立つ」と言う。 この意味は「時が来たときに狸が大師に変わり、狸の金の玉が二つ定まると、未来の二つの遺伝子が解放され、その時、大師も狸も、神の前で傘帽子を外す」。これは、「神の沙汰を待つ」という大師の言葉につながる。大師は、「さぬき」と「たぬき」から、「さ」と「た」を抜いて取り出すと、「神の沙汰を待つ」という意味になるという。

    ★Vol.614.注目!真実の歴史!日本三大怨霊が鏡面反転した出来事が信玄と謙信の物語!https://youtu.be/fFs16rpqW0w
    ★Vol.613.注目!玄天経典-四神の玄武は二つの顔を持つ!-https://youtu.be/mxfgwR9vWnM
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    ★Vol.610.注目!真実の歴史!信玄、謙信、信長の「信」という三つの「信」に隠された秘密!

    信玄と謙信の間に子どもがいて、その子は成長して織田信長になった。信長の「信」という字は二人の名前から取った。北信信仰の北の守り神である毘沙門天が関わっていた。信長がその地位に昇りつめるにはそれなりの後ろ盾がないと成し遂げる事は出来なかった。信玄の「信」、謙信の「信」、信長の「信」という三つの「信」に隠された秘密がある。事を進めるために敢えて織田家に養子に出した。信長は、当然、毘沙門天から信玄と共に未来の事を聞いているはずであり、信玄と謙信には手を出せないし、目立った事も出来ない。信長はある程度事を成した後は政治や天下統一に興味がなくなってしまった。そしてキリスト教に傾倒してバチカンに行ってしまった。それは、信長は自分の両親の哀しさを知っていて、自分が供養したいと思っていたからである。ここからが大切な事で、信長は両親の供養を日本では出来なかったという事である。北辰信仰の十字架とは違う十字架であっても、信長は十字架の元に私はおりますという意味を人に向けたメッセージではないだろうか。だから、織田信長が本能寺の変で最後に言ったとされる言葉が「是非に及ばず。」であったのだ。「是非に及ばず。」とは、当否や善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしか方法がないという意味である。この言葉はひょっとすると信玄と謙信の事に対してであったのかも知れない。

    ★Vol.611.注目!玄天経典-組織の一員としての覚悟、組織名称“銀河防衛チーム”!-https://youtu.be/09SEL1ssPvE
    ★Vol.612.注目!真実の歴史!三種の神器は織田信長から明智光秀に渡り、家康の影武者に渡った!https://youtu.be/22lU6k10Xrs
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    ★Vol.609.注目!玄天経典-ドラゴンプロジェクトの始動!-

    今、この世の人々を正しき道に導く最も重要な時期が到来している。これを我々はターニングポイントと呼ぶ。この世を正しき道に導くために資格者が選ばれ、それぞれに、四神の力である青龍の力、白虎の力、朱雀の力、玄武の力を使って、人々を正しき道に導く使命が与えられた。 それぞれの資格者は、光の民の力を少しずつ受け取り、互いに協力して人々を導き、次の未来の扉を開けることとなる。帝釈天は、この乱れた世を救うため、天界のルールに反して契此天(布袋の剣を持つ姿)や毘沙門天より先に下界に降りた。白虎は、ある菩薩を介して帝釈天の御霊を授かって生まれてきた。白虎は、来たるべき時に備え着々と準備をしていった。二〇一九年十一月、白虎が中心となり、青龍の力、白虎の力、朱雀の力、玄武の力を持つ資格者たちを一つのチームにまとめ、人々を正しき道に導く活動を開始した。

    ★Vol.605.注目!玄天経典-光の民による導き!-https://youtu.be/AfET8Wt26jg
    ★Vol.606.注目!真実の歴史!刀八毘沙門天が二人の間にできた子をあずかって二人を助けた!https://youtu.be/J1UH5pBn4Jg
    ★Vol.607.注目!玄天経典-我々は、次の三つの未来のいずれかに進む!-https://youtu.be/F2cC17GfOJI
    ★Vol.608.注目!真実の歴史!二人の子供が織田信長である理由https://youtu.be/0ZpByEhGI-w

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    ★Vol.603.注目!玄天経典を発刊する意義!

    私は、弘法大師から白龍虎俊というペンネームをいただき、現代版の玄天経典を、人々の「未来への導道しるべ」として出版し、多くの人に読んでいただくように命じられた。これは私に課せられた重要な役割の一つである。大師から「この書が多くの人に読まれることで、この世が正しい方向に向かう」というメッセージをいただいている。難解な言葉を用いている書は世に多いが、多くの人々にその内容が伝わらなければ何の意味も成さないのである。現在版の玄天経典は、光の民のメッセージを、多くの人に伝えることを主眼として書き記した。 光明方示が日々、光の民から通信を受けた内容が彼の口から発せられ、その言葉を録音し文字に起こし、その難解な内容をわかりやすい言葉を用いて記録している。大師は「光の民から指定された神社や寺、湖などの聖地を現地調査し、そのデータを大師から授かった馬鹿羅の手法を駆使して解き明かしていくこと自体が玄天経典そのものだ」と言う。その内容を書き記して世に送り出すのが、現在版の玄天経典なのである。大師が各地の聖地に、我々が解き明かすべき暗号やアイテムを隠し、一二〇〇年の時を経た現在、我々は、光の民のメッセージを受けて現地調査を行い、玄天経典に秘められた謎を解き明かしていった。弘法大師の壮大な光の民の計画である玄天経典が、一二〇〇年の時を経て、現在、このターニングポイントにおいて「我々の未来への道しるべ」として、現在に甦るのである。

  • ★YouTube配信動画,  傘帽子

    ★Vol.601.注目!真実の歴史!八重垣姫は若い頃の上杉謙信!

    諏訪湖に伝わる伝説の八重垣姫は、実は、謙信の若き頃の姿だったと言われている。それはまだ当主になる前の少女の頃である。そこへ家を飛び出した不良の侍、浪人である若き頃の信玄と愛し合って子どもが出来た。この事は八重垣姫の周りにいる身内や家臣だけが知っており、このまま放っておけば信玄に知れて殺されてしまうと危惧していた。信玄を逃がすために自分の国である甲斐の国(現在の山梨県)に帰そうとして、八重垣姫が狐のお面をかぶって船頭に化け、船に菜種を沢山積んで、歌を歌いながら花を売る花売りの娘に化けた。そしてその中に女装をした信玄が入って、諏訪湖を渡して帰した。信玄は山梨県で、謙信は諏訪湖の向こう側にあった。当時はそこが上杉家の領土になっていたのだが、戦いで武田家に奪われてしまった。いずれにせよ、信玄と謙信の領地は隣り合っていたので非常に危険であった。その当時は諏訪湖が境界線の様なものになっていたのである。そのため、怪しまれない様に狐のお面をかぶってそこを渡って行った。関所では、信玄は、顔をやけどしているからと、狐のお面をかぶって声だけ出して何とかお願いしますと言ったが、番所の侍にとがめられた時に、私は女ですが、顔が焼け爛れて見せる訳にはいきません、申し訳ありませんと言った。「確かに声は女だ、男ではないから通って良し」と言われて通してもらった。これは子どもが出来た頃の話であるから、また後に会っている。一度帰ったが、戦いの中、謙信に戻って会っていたと思われる。それは謙信が十三、十四歳の頃であった。子どもが出来るまでお忍びで会っていたのである。そして子どもが生まれると、二人の子どもである信長を刀八毘沙門天という僧侶に預けた。その後、戦いまで二人は会っておらず、信玄はそこで謙信と別れてしまった。